Saturday, February 25, 2017

国立現代美術館キアズマ散歩

ヘルシンキの風は重く、つらかった。
ヘルシンキ中央駅から郵便局を横切るとすぐに国立現代美術館キアズマだ。スティーブン・ホールの設計によるモダンな舟形のホールだ。外観も内部も贅沢にできているというか、空間の使い方から言えば、かなり無駄をしているのが特徴だ。展示スペースがごく限られるのはやむを得ない、という判断だったのだろう。
2つの展示をしていた。本来は3つのはずが、1つ(常設展)はいま入れ替え中のため、閉鎖されていた。常設展を見たかったのに、と思いながら、2つの展示を見た。
1つは「モナ・ハトム個展 Mona Hatoum」。彼女は、1952年、ベイルートで、パレスチナ人の両親のもとに生まれた。ロンドンで学び、いまもイギリス市民でイギリスを中心に活躍している。この個展は、パリのポンピドーセンターが企画したものを各地巡回しているという。フィンランドではモナ・ハトゥムは初めて紹介される。
モナ・ハトゥムは最初はパフォーマンス・アーティストで、映像も駆使していたが、90年代から彫刻やインスタレーションに力を入れるようになった。家具、空間、テキスタイル、鉄、砂、照明器具、絵写真、映像その他、何でも使う。
最後に展示された「地図」は、透明のガラス球を数百個(数千個?)床に並べて世界地図を描いている。それだけ。ただそれだけの、床とガラス球による作品だが、作品の前でじっと考え込んでいる人が結構いた。
北アイルランド生まれのパレスチナ人の作品という「先入観」通りの政治的アートがずらり。監禁、監視、暴力に抗する精神が、ストレートに表現されている。政治犯に対する拷問をテーマとしたインスタレーションが目立つ。「見る者と見られる者」を映像の内部と外部に2重に設定した作品も。
「+と-」という作品は、円形のテーブル内に茶色の砂を敷き詰め、回転する2つの板で、砂を動かす。1枚の板は砂に山を作り(円形の多重のラインを作り)、もう1枚の板は砂を均して平面にする。その繰り返しがずっと続く。対立する2つの力、つくることとこわすこと、建設することと破壊することを表現している。誰もがイスラエルとパレスチナを思い浮かべるように。
重い課題に正面から向き合って、重いものは重いままに、つらいものはつらいままに、表現し、鑑賞させる。
もう1つの展示は、「メエリ・コウタニエミとアルマン・アリザドMeeri Koutaniemi & Arman Alizad」。メエリ・コウタニエミは1987年生まれの写真家で、東南アジア、中東、アフリカ各地で撮影している。アルマン・アリザドは、1971年生まれのTVドキュメンタリスト。今回はメエリ・コウタニエミの写真展示が中心だが、2人で作成した映像が2016年秋にフィンランドで放映された。その上映も行っていた。
上映作品は、2011年、ノルウェーにおける前代未聞の「テロ事件」の被害者たちへのインタヴューだ。コンセプトは、衝撃的な被害を受けて生き延びた人々や遺族が受けたトラウマと、被害者のままではいたくないと思い、トラウマを克服しようとする人々がぶつかる壁だ。つらい映像である。
写真の方は、インド、ケニア、タイなど各地で撮影されたもの。暴力を受けた女性、難民女性、FGMをされた女性の写真が中心。ゴミ捨て場をかき分けて、何かを探す人々。キャンプを移動する人々。うちひしがれた女性。呆然とたたずむ少女。
一番最後に、世界の難民状況、国内避難民の状況が開設されていた。シリア、コロンビア、スーダン、南スーダン、ブルンジ・・・。そして、「世界では数百万の難民があふれているのに、昨年フィンランドが受け入れた難民はわずか1000人にも満たない」と大書されていた。厳しい告発だ。
厳しい告発? 1000人にも満たない? 人口550万のフィンランドで?
モナ・ハトゥム。メエリ・コウタニエミ。
2人の女性の現代アートは重く、つらく、切ない。全部見終えて、1階のカフェにぐったりと腰を下ろす。
改めて見ると客は地元フィンランドの人々だ。年代に偏りはない。年配のカップルが多いと言えば多いかもしれないが、若者たちもかなり来ていた。一群の少年たちが軽やかに、時に走るように。恋人同士が肩を寄せ合いながら。どうしてこういう展示に、こういう人々が多数やって来るのだろう。少し不思議な思いをしたのは、つい日本と比較するからか。